LAND'S END
PROFILE


プロフィールにかえて「美術部にも属せず美大にも行かずに絵でなんとかごはんを食べる方法」






4コマ漫画
 1962年、岩手県はリアスの海辺の生まれです。その後、父が木炭関係の仕事に従事していたため、北上山地を遊び場に山村で育ちました。本州で冬、人が生活する場では最低気温を記録する地でしたが、人間の脳はうまくできているもので、なぜかそのへんの記憶は暖色系です。町場の生活になじむようになったのは小学校に入学してからでした。



 高校は盛岡商業高校経理科。部活は吹奏楽部。美術部という考えはなぜかありませんでした。高校後の進路はといえば、トロイアを発掘したシュリーマンにあこがれ、東北学院大学文学部史学科へ。専攻したテーマは古代ギリシア史。在学中、史学科さえ出ればシュリーマンになれる、といった考えがいかに甘かったかを思い知らされ(あたりまえです)、就職活動では完全な出遅れ組。いくつもの企業から一次審査で首を横にふられ、落ち込んでいた卒業間際、ふと考えました。「歴史がだめなら何をごはんのタネに生きていければ自分はシアワセなのか。」(卒業目前に考えることではありません……。ナサケナイです。)



 なんと答えは、 「うーん、絵と映像に関わって生きていけたら、どんなシゴトでもいいよなぁ……」。
 史学畑の人間が絵……。突拍子もないとはまさにこのこと。たしかに落書きが好きでノート教科書はヘタの横好きのマンガだらけではありました。さらにただたんに映画好きだったことも手伝っての答えでしたが……。そんなところへタイミング悪く、否、良く、人生の分かれ道(だったような気がする)のひとつはやって来たのです。



 それは某情報タブロイド誌の主婦パート募集広告でした。『アニメーター急募!!未経験者可!』その求人欄に踊る文句を見つけた私の頭の中では「アニメーター=絵+映像」というなんとも簡単な図式が。わらをもすがる思いでとりあえず応募。そしてなぜか採用となったのでした。かくして私の初めてのはたらく場は仙台駅東口にあったアニメプロダクションのちいさな動画机となったのでした。一枚の動画を描いて120円、確かそんなものだったと思います。
 1986年冬の終わり、その時が、どんなかたちであれ「絵」を「描くこと」でお金をもらう、社会人としての私のスタートでした。



 アニメーター時代は、様々な言い伝えが業界内でまことしやかに語られる残酷物語的世界でしたが、ここでは割愛、はじめは動画マン、後に原画マンとして様々な作品に携わることになりました。主な参加作品は「ゲゲゲの鬼太郎」「ミスター味っ子」「アニメ三銃士」などでした。当時、演出さんや作画監督さんから日夜繰り返し打ち込まれる『原動画構図百本ノック』が、美術の経験のない、デッサンもクロッキーも知らない私をなんとか使えるまでに鍛えてくれたような気がします。賃金は完全ノルマ制。当時の同年代の一般的社会人がもらう給金にははるかに及ばない給料でしたが、例えば、電器屋さんの店先、ちびっ子たちがテレビアニメに食い入るように見ている姿に出くわしたりすると、不思議と金では決して買えない「力」が湧いてくるのでした。



 アニメスタジオでの修行が3年ほどたった頃、経済的な事情で転職をせざるを得ない事態がやってきました。退社したものの、アニメの原画しかできない人間を雇ってくれる会社などそうあるものではありません。「広告制作という職種なら仙台にも結構あるなー、モノづくりという観点からいえば、ちょっとはアニメ制作と似ているかもしれないなあ……、などと勝手に解釈し、畏れ多くも職安にある「アートディレクター募集」や「グラフィックデザイナー募集」を片っ端から受けたのでした。結果は火を見るまでもなく明らか。返事はすべて「不採用」。当たり前です。ところが捨てる神あれば拾う神あり。卒業アルバムを作っている印刷会社が救いの手をさしのべてくれたのです。



 仕事は卒業アルバムのレイアウトでした。毎日毎日様々な学校の思いでの写真とにらめっこです。最初は救ってもらったうれしさでいっぱいでしたが、人間とは勝手なもので、むくむくと心の中にわきおこってきたのは、「やっぱり絵を描きたい」という欲求。印刷会社に勤めて一年が経とうとしていたある日、求人雑誌に「イラストレーター募集!作品持ち込まれたし」の一文。広告制作会社の求人でした。まず真っ先に文具店に向かい、一番安い透明水彩12色セットとケント紙を買いこむと、アニメまがいのカットを数カット描き、A4のクリアファイルにつっこみ、無謀にも面接に向かったのです。



 何日か後、神様のいたずらとしかおもえない、「合格」の返事が。ところが初めてのイギリス旅行をその時期計画していた私はわがままにも「旅から帰ってきてからでもいいですか?」電話の向こうの声はあきれた果てたようでしたが、なんとか許してもらい、おおあわてで印刷会社への退社願いと旅の準備を一気にすすめ、退社当日、うきうきとその足で成田へ向かうバスへ乗り込んでいたのでした。帰国後、地獄が待っているとはこれっぽっちも思わずに。



 帰国翌日、デザインプロダクションへの出社初日は完璧な時差ぼけ頭でスタートしました。実はこの時までの人生で私が使ったことのある画材といえば義務教育時代に使ったサクラクレヨンと、文部省推薦?不透明水彩、そしてフツーの鉛筆のみ。そんな私にデザイナー諸氏、ならびにディレクターから様々な注文が。
「このイラスト、パステルでね」(……パステル?ほー、きれいで、かわいいんだなあ)
「透明水彩でいこうよ、○△さんが描くような空気感のある雰囲気でさ」(こんなん描けるわけ、ねー!)
「エアブラシで瓶、リアルに描いて」(エアブラシ????なんですかぁ?)
「カンプ、明日までしあげといて。サイズはA全ね。マーカーとパスでいいからさ」(カンプって、何?マーカー、くっせー!) 見るもの、触る画材、聞く言葉、全てがはじめて。弱冠27才にして、「現場叩きあげ型イラストレーター」人生がここに始まったのでありました。



 人間、追いつめられると何とかなるものです。毎日が納期、毎日が技法書と首っ引き。十数人のデザイナーさんからこっちのスケジュールなんて関係なく出される注文に何とか応え続けた(と思っているのは私だけかもしれませんが)4年がたったある日、ふと、思いました。「一人でやってみようかな」
 デザイン会社の社長、上司、仲間たちも暖かく送り出してくれました。そのとき、上司が一言。
「実は面接に、おまえほど粗末な作品ファイルを持ってきた人間はいなかった。おまえを採用したのは完璧に賭けだったよ。あっというまにつぶれるか、残っていくか、どっちかしかない、そう思って採用したんだ。」



 独立してようやく10年がすぎました。相変わらず、2ヶ月先も見えない生活ですが、雨漏りしない家に住み、食事も3食、手を合わせ感謝できる生活が今あります。目隠しで綱渡りをスキップしてるような感はありますが、一本の線を引かせてくださる全ての仕事に、そしてその仕事を下さる全ての方々に感謝です。
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